昭和41年11月16日 朝の御理解
同じ美しさの中にも華麗な豪華な美しさもあれば、素朴な美しさもございます。いうなら化粧した美しさと素肌の、生地のままの美しさと言った様な事が言えるのじゃないでしょうかね。教祖の神様のご信心のご神格というか、どっちかというとその素朴な、素肌というか、生地のままの美しさと言う様なものの中に、美を感じられる、美をまた追求しておいでられたと、何でもない信心生活の中に、またはその難儀の中に有り難しを追求しておいでられたというような感じがいたしますね。
教祖、宗祖と言われるような方達の中に、お伝記なんかに非常にこの、奇跡的なお話なんかが残っておりますけども、一番その奇跡的なお話が残っていないのは、金光教の教祖のご伝記なんかをご拝書さして貰って、それを感じるですね。奇跡がないです。ないということもないですけれども、その目を見張るような奇跡がないですね。もう本当にたんたんとした、素朴なもう当たり前の様な事なんです。当たり前なことの中から当たり前なことを教えておられる。
そして当たり前にそれを行じておられる。そこに何とも言えん、教祖の神様のご信仰というものを、私共は感じます。私共はやはりそう言う様な御信心に、神習わして頂かなければならんと思うですね。目を見張るようなおかげを頂いたと。それもその有り難いのですけども、日々の何でもない、いや何でもないではない、どっちかと言うと人間的ひとつの苦悩の中にもです、そのやはり美しさというもの、有り難しというものを感じさしてもらえれる信心。
それをもうその、キザなことではなくて、もう私共の直に、この肌で感じるとでも申しましょうか、ね。有難さを、このもう心とこの肌身に実感さしてもらえれると、言う様な有り難い信心、そういう信心をに私自身、あこがれております。昨夜、皆さんが帰られましてから、あれこれ終わらして頂いて、最後の御祈念をさして頂く、ちょうど2番目の娘ともう2人でございましたが、12時過ぎておりました。
全部こう灯りはもう落としてしまっておりますから、ご神灯の小さいとだけが灯っておるだけで、お御簾を下ろしておりますから御神前の中はまっ暗いです。私はもう羽織袴をとってありますから、下からお礼をさしてもらうんですけれども。ですからその御神前の中が見えるわけでもない、見えはせんのです、暗いですからね。そしたらあの、御霊様の前に山茶花の献花があっておりますね。
それがもう、拍手して頭を下げさして頂きましたら、心眼に、あの先程、皆さんがここをお掃除したばっかりで皆さん帰られたんですから、お掃除をしてあるにも拘らず、(?)の中に山茶花がいっぱい浮いて、散っておるところを御心眼に頂きました。それで私、お礼のお届けを(?)さして頂いてから、子供にそれで御祈念終わってから、御心眼に頂いたことを、はぁあの中に散らかっておるのじゃろうかと思うて、行ってみたところがやはり御神願に頂いた通りに、お便所の中にいっぱい花が散っております。
もういっぱい、もうお便所の中にいっぱい散っておるんです。それで私小さいおどんぶりか何か持って来なさいちゅって、それから2人でその、それを一つ一つひらって、お便所の中を綺麗にさして頂いたわけでございますけれども、私は本当に有り難いと思うんです、ね。この様な事までお知らせ下されてとという、はですね、お便所の中に花がいっぱい散らかっておる。そのことをお下がりのお礼の時に下さったですね。
何年かなるか分からんけれどもです、もうこの様な事にまでお知らせ下されて有り難しと、そしてこのようにして、私の心を大事にして下さって、有り難しという気持ちなんです。私がいつも申しますように、女性神経が細かい方なもんですから、ご神前に、例えば出らして頂いてから、(お殿中?)の所に花がいっぱい散らかっておったら、もうああこんなに散らかってと、私が思うんです。
もう思うそのことが、見とるから私の心を汚したと言われたりするわけなんです、ね。ですから明日の朝の御祈念の時にもまた私、出させて頂いて、私の気持ちが穢れないように、汚れないように神様はこのようなことにまでお知らせを下さり、このようにまでして、私のことを大事にして下さると思うたら、またいよいよなお、有り難くなるわけなんですね。なら掃除さして頂いて、床の中で必ず、その前に御祈念をさしてもらうんですけれども、どうぞ何か知らんけど、その有り難いという。
段々広がって参りまして、もうそれこそ言うならそこいっぱい、床に休んでおる、また私の部屋いっぱいに、その有難さが広がって行くんですね、限りなく。そういう有難さの中に恵みのおかげを頂いてから、今朝の目覚まし。私はいつも皆さんに聞いてもらうんですけれども、そういう願ってみりゃ、有り難いというものを頂いておかなければ、明日有り難いということはないって、私、ね。休まして頂いておる時に、有り難い眠りのおかげを頂かなければ、目覚ましの時だけ有り難いということはない、ね。
だから寝がけ、一番最後を大事にしなければいけない。ところがなんです、ね、もう本当に実際にそういう有り難い中に、恐る恐る有り難いとこう雰囲気の中に、休ませて頂いたことでございますけれども、ところがです、今朝ですね、別にいや苦しいということはございませんでしたけれども、なら有り難い目覚ましじゃなかったということです。何とうなしにぼんやりした目覚ましだった。何とはなしに下りて参りましても頭のさえない、すっきりしない、ぼんやりしたものであったということ。
私は皆さんに今日、聞いて頂きたいのは、ここのところでございます、ね。確かに昨夜はあのように有り難かったから、明日の朝もう、必ずきっと有り難い目覚ましのおかげを頂くことであろうとこう思うのですけれども、案に相違して、そう有り難いということでもなからなければ、と言うてなら、そげんじゅつないくらい、苦しいということでもございませんでしたけれど、とにかく頭のさえないぼんやりとした状態で、御神前にまぁ出らして頂いたということ。
私共が、日常生活、また教祖の神様の御信心生活を、残して下さった信心というものがです、どちらかと言えば、金光教の信心は、教祖の神様の御信心は素肌売りって、素朴な美しさと。華麗な化粧をした美しさというのではなくて、そういうような地肌、素性の中に美しさを感じる信心だと。言うなら全部同じ、いや当たり前のことと。人間には本当言うたらその当たり前なことがほとんどなんですよ。
こんな広大なおかげを頂いて、と言った事はそう何時もかつもあるのじゃないです。いつも普段なんです。いつも何でもないと言った様な、平穏と言った様平穏無事と言った様な事を申しますけれどもですよ、そう言う様な事が大体は、殆どを私共の信心の中にでもしみておるわけです。そうでございましょうが、痛うもなからなければ痒いもない。おかげを頂いて、左程にお腹が空いておる訳でもなからなければ、ね、と言うてあれ食べたいこれ食べたいと、もう思わないと言った様な時の方が多いでしょうが。
あぁお腹が空いてきた、欲しいなという時間はわずかでしょうが、ね、お風呂にでも入りたい、極楽極楽という時間は、ほんなお風呂に入っとるちょっとの時間でしょうが、ね。暑い寒い中にもです、本当言うたら何でもないという時間の方が多いんだと。してみるとその何でもないという時間の時ににです、その何でもないことの中に有り難いということを感じた方が、これは本当じゃないかとこう思うんですね、ね。教祖の神様は確かにそう言う様なお方でおありになった。
何でもない時に何でもない中に有り難いものを感じておられた。ほう今日は目覚ましのおかげを頂いて有り難いと。もう気分良う目覚ましのおかげを頂いて有り難いと。そういう時ばっかりは少ないのです、ね。やはり少しは辛抱がいる。少しは辛い事をこらえなければならない。さぁ眠たいけれども、元気を出して起きようと言う様な時の方が多いです、大体を言うたら。ですからそれが出来るその事が有り難いのです。そこで私は今日御祈念中に考えたんですね。
確かに4時半でも有り難かったのに、今朝はどうしてあの有難さが持続できていないのか、続けられていなかっただろうかと言う事なんです。いつでございましたでしょうか、もう10年も前の善導寺の原さんが椛目へ朝晩、あぁしてお参りされます。その時にとにかく椛目に向かわせて頂いておると言う事がもう有難うしてたまらん。自転車をふみながらもう踏む足も軽々と本当に有り難い有り難い、有り難いなあと思うた途端に自転車が見事に溝の中に落ち込んどったっちゅう。
あるですね。こげん有り難い痛みですね、どうしてその溝の中に落ち込まにゃならんじゃろうかと思うぐらいでしょうが、有り難い真に有り難いと思う心は、すぐにみかげの初めじゃと仰るのにけれどもやはり、そういう有り難いと言う事がです、有り難いというものをですね、神様は置いて下さったからこそ、落ちたんだと言う事を感じるですね。今朝から私は。その有り難かったからこそです。今日は私は成程自覚出来ていなかったのも、有り難かったということはですね、言うならこう言う事が言えるんです。
今日一日一生懸命、働かせて頂いた、いつも100円しか儲からんのに、今日は200円も儲かったと言う事でしたから、有り難いでしょうが。はぁ今日は売り上げが倍あった。はぁ有り難いとこう思うでしょうが。ところが集金に出た所が、丁度200円集金に来ちゃった。もう働いてきたのをみな、から渡してしまわなければならん時にです、さあそこが人間なんです、ね。おかげを頂いて、ほんに今日は200円のおかげを頂いておったから200円の支払いができるのが有り難いんだけれども。
やっぱり出す時に何とうなしに寂しいものを感じるでしょうが。せっかく働き、今日はいつもの倍儲けたと思いよったら、もう払うてしまわんならん、ね。だからそういう時にです、寂しいものを感じる、それは人間だから当たり前なんだけれどもです、その当たり前、そのことにです、神様は特別な働きを感じさしてもらえれる信心、いやそういう時にです、信心辛抱が必要なんだということです。そこで信心というものは気分でするものではないということです。自分の気持ちが神様に向いておる。
自分の心が有り難いからお参りをする、これも今、有り難いんだけれども、有り難くもない、ね、何でもない。どっちかっちゅうならちいっとじゅつないぐらい。どっちかっちゅうなら本当に有り難いとは思うばってん。せっかく今日一日こんなに沢山、おみかげを頂いたと思うたら、また沢山の支払いががばっと(?)せにゃならんというような時にです、寂しさを感じるのは人間だから当たり前です。けどもここんところをですね、ここんところを私は辛抱さして頂いて。
それが次の朝の、また原動力に成る位なものをここに養うていく、言わばそういう精進こそがです、教祖の神様は一番大事になさったのではなかろうかというふうに思うのです。ところがそう言う所をお互いが大事にしないのですね。折角これだけのいつもの倍の売り上げを頂いておるのに、払うの多かったと言うてから、いわゆるがっかりしたような、寂しいような気持ちで私は終わったんでは相済まない。成程有り難い有り難いで椛目通いはこんなに有り難いものかと思ううち、溝ん中に落ち込んでおる。
はぁおかげを頂いて有難いなんですけれど、まぁ言うなら有難いからこそ、言うなら借金払いが出来ておる、それだけの借金払いが出来ておるのである、ね。私は今日はね、そのこう言う所の信心を大事にしていくと言う事が、信心辛抱というのじゃなかろうかと。有難い時にはもうどげな辛抱でもする。何か自分が特別のおすがりでもせなん時には、もうどげな修行でもする。けれども何でもない平凡平易と言う様な時にです、私共がいやどちらかと言うとちいっと今日は、まぁ言うならご無礼したいごたる、ね。
これは今朝はゆっくり休ませて頂こうと思うたんです。いやそう言う様な時もあるけれども、そう言う所をです、私は大事にして行くと言う事がです、言わば信心を切る事なし、ね。そこでその信心を切断する事になり、ただ有り難い事だけがずっと続くと言う事はないから、有り難くない所を、お互いがぷつっと切りがちなんです、大体信心は。ですからここの切れがちの所もです、大事に大事にこうして行くと言う所に真に有り難いものがまた頂けて、いわゆる面々として、その有難いものが続けられていく。
いや中には有り難くないところもあるけれども、有り難くないなりに続けられていく。ここんところが信心辛抱だと、ね。そこんところを私共は大事にして、いかなければいけんのだと、ね。神様はそういうおかげを下さることのために、例えば昨夜から私が感じている、このようなことまでお知らせ下され、ね、このようにまでして、私の心を大事にして下される、有り難い。そう言う様な事がですね、もう皆さんの周辺にもどのくらいあるか分からんです。
本当にその有り難いがです、有り難いと本当に実感する、それが私の( ? )私の部屋いっぱいじゃない、もう私の周辺に有り難いが、もうとがめるように有り難い有り難いムードの中に睡眠をとらせて頂く。休ませて頂いたのだから、本当言うたら明くる朝の目覚ましも、有難うて有難うてと言う様な、目覚めでなからなければならんのだけれど、そこが生身であるということ、ね。
やはり眠たいのなら眠たいのであり、きついのはきついのであり、寒いのは寒いのだけれど、ね、そこんところを私は辛抱さして頂く、そういう信心がです、私は神様の目からご覧になったら、素朴な人間的なその精進の姿こそが美しいものに神様はご覧下さるのじゃなかろうかとこう思うのです。おかげをやった、びっくりするほどやった。氏子が浮き浮きになって喜んでおると。これはまあ言うなら華麗であり、化粧したり、本当の地じゃない。そういう美しさもあっていいのだけれども、ね。
もう人間そのもののです、ね、人間らしいです、叩かれりゃ痛い泣きもする、不平も言う。けれどもその中にです、辛抱し抜いておる精進の姿こそがです、素肌の人間ありのままの姿の私は美しさというのじゃなかろうか。そういうところをじっとこう、とらえていきよる、辛抱して信心を続けていきよる姿こそが、神様は信心辛抱として受けて下さるのじゃなかろうかと、いうふうに思うのですね。
どうぞ。